なぜ「差異が差異を生む」が重要なのか
「情報」と聞くと、私たちはしばしば客観的なデータや数値を思い浮かべがちです。しかし、人類学者でありサイバネティクス研究者のグレゴリー・ベイトソンは、情報を“単なる物理的実体”ではなく「差異が差異を生むもの」と捉えました。これは一見抽象的な言葉ですが、現代の認知科学やAI研究を理解するうえでも示唆に富んでいます。本記事では、ベイトソンの情報理論の背景から、他の思想家との関連、さらには大規模言語モデル(LLM)の仕組みまで、幅広い観点から「差異が差異を生む」概念をひも解いていきます。
1. ベイトソンの情報理論:「差異が差異を生む」とは
グレゴリー・ベイトソン(1904–1980)は、1972年刊行の著書『精神の生態学(Steps to an Ecology of Mind)』などで、“情報とは差異が差異を生むものである”と述べました。これは単に「目の前にある物理的データ」ではなく、「何らかの効果をもたらす変化や違い」を情報と呼ぶという考え方です。
たとえば静かな水面に小石を落とせば波紋が広がり、周囲の水に影響を与えます。ベイトソンによると、小石が落ちた瞬間の出来事(差異)が、次の波紋の変化(新たな差異)を生み続けるとき、それこそが情報のやり取りだというわけです。さらに彼は、この「差異による伝達」を1ビットの最小情報単位にまで当てはめ、情報とは物質やエネルギーそのものではなく、システムに認識されうる意味ある差異だと主張しました。
2. 思想史とのつながり:ウィーナー、パース、デリダ、ルーマン
ベイトソンの主張は独創的であると同時に、複数の思想家の流れを汲んでいます。
2-1. ノーバート・ウィーナーとサイバネティクス
サイバネティクスの創始者ノーバート・ウィーナーは、「情報は物質でもエネルギーでもない」と定義し、情報量をエントロピー(乱雑さ)の減少量として捉えました。ベイトソンもまた、情報を「負のエントロピー」と関連づける発想を示唆し、差異が情報として伝わる仕組みがシステムの秩序形成に寄与しうる可能性を示しています。
2-2. チャールズ・サンダース・パースとプラグマティズム
記号学の祖C・S・パースは、「意味の差異は行為の差異に還元される」とするプラグマティズム的考え方を提唱しました。これは「仮にAとBという考え方の違いが、将来的に何の行為上の差異も生まないなら、それは意味の差異とは言えない」という論理です。パースのこの発想は、ベイトソンの「差異が差異を生む」と同様に、“何らかの影響や変化をもたらす差異こそが意味を持つ”という点で響き合います。
2-3. ジャック・デリダと差延(ディフェランス)
フランスの哲学者デリダは「ディフェランス(差延)」という概念を提唱し、言語や記号の意味が「他との違い」によって生じ、さらにその確定が常に未来へ繰り延べられる点を強調しました。ソシュール言語学の「価値は差異によってのみ生じる」を拡張したもので、意味は固定的なものではなく差異関係のネットワークの中で成立するという立場です。ベイトソンの「差異=情報」というアイデアと直接の引用関係はありませんが、意味を「差異の効果」と見る点で共通基盤に立っています。
2-4. ニクラス・ルーマンの社会システム論
ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、ベイトソンの理論を参照しながら「情報とは『差異が差異を生むもの』である」と社会システム論に位置づけました。コミュニケーションをシステムの基本要素と捉え、受け手が何らかの意味の変化を感じたとき、はじめて情報が成立すると説明します。これも「誰にとってどんな差異が生じるか」を重視する考え方で、情報を客観的な実体でなく「関係性」によって捉えている点でベイトソンと通底します。
3. 現代の認知科学に見る「差異=情報」の具体例
ベイトソンの「差異が差異を生む」理論は、現在の認知科学や神経科学のモデルと驚くほど合致する面があります。
3-1. 知覚の仕組み:変化やコントラストの検出
人間の感覚は、絶え間なく流れる刺激の中で“変化”や“コントラスト”にこそ敏感です。たとえば視覚では、境界や色の対比を強調するメカニズムが働き、一定の刺激が続くと馴化によって感じにくくなります。匂いがいつの間にか意識から外れるのも同じ理由です。脳が「新しい差異が見られない部分は情報が少ない」と判断してリソース配分を切り替えるため、差異の有無が感覚情報の重要度を決めるわけです。
3-2. 言語と文脈:意味は差異関係から生まれる
言葉の意味も同様で、単語自体よりも文脈とのコントラストによって解釈が変化します。ソシュールが「言葉の価値は他との違いに依存する」と述べたように、一つの単語が置かれる位置関係(差異)によって受け手の理解が大きく変わるのです。皮肉や比喩などが文脈を変えると、同じ語句でも異なる情報を生み出すケースは日常会話でよく見られます。
3-3. 予測符号化:誤差が学習のドライブになる
脳が内部モデルで予測した結果と、実際の感覚入力との“差異”が誤差(予測誤差)であり、新たな学習の原動力になるとするのが予測符号化理論です。誤差が大きければモデルを修正し、次の予測精度を高めようとする。このプロセス全体を“差異の検出と修正”として捉えると、ベイトソンの「差異が差異を生む」という観点と親和性が高いといえます。
4. LLM(大規模言語モデル)における「差異が差異を生む」アナロジー
最近注目を集めるGPTのようなLLMも、実はベイトソンの言う「差異」が大きな役割を果たす仕組みと見ることができます。
4-1. 埋め込みベクトル:意味の差異を数値化
LLMは単語やサブワードを高次元ベクトルで表し、意味的に似通った単語は近い位置、異なる意味なら遠い位置に配置します。これにより「king – man + woman = queen」のようなアナロジー計算が可能となり、ベクトル空間における“差分”が実質的な意味の違いを表すわけです。
4-2. Attention機構:関連性の差異に基づく重み付け
Transformer型モデルの要であるAttention機構は、文脈内で重要な単語同士の“関連度”を算出して情報を集約します。関連度が高い(差異が小さい)語の組み合わせはより強く結合され、文脈的に遠い(差異が大きい)情報は切り捨てられる。こうして入力間の差異関係がモデル内の状態変化を生み、次の予測を形成しているのです。
4-3. 予測誤差:学習と生成
LLMの学習は、正解トークンと予測との誤差(差異)を逆伝播しパラメータを更新するプロセスです。つまり「差異が差異を修正する」仕組みともいえます。生成段階でも、文脈にちょっとした違いがあるだけで次トークンの確率分布が変化します。入力の差異が出力の差異を連鎖的に生む様子は、ベイトソンの理論を計算モデルで具現化したようにも映ります。
5. 人間の認知との比較:同じ“差異”でも意味づけは異なる
もっとも、LLMがテキスト空間で差異を操作している一方、人間は現実世界を体験しながら意味を付与します。ここには次のような差があります。
- 意味の理解: 人間は「火事」という情報に危険性を感じ、行動を変える一方、LLMはテキスト文脈しか扱わず、火災の実態を理解していません。
- 目的と適応: 人間は差異を利用しながら自らの行動を調整し、必要に応じて新しい差異を作り出す能動性を持ちます。LLMは与えられたデータからパターンを学習・再生産するのみで、自己目的は持ちません。
- 世界モデル: LLMが扱うのは言語の地図(記号の差異)のみですが、人間は身体的・社会的文脈を含む現実(領土)と結びついて差異を評価します。
このように、LLMと人間の間には大きな質的差異があるものの、LLMがここまで流暢な応答を生成できる点は、「言語における差異パターンの蓄積」だけでも相当の意味的整合性を生み出せる可能性を示唆しています。
まとめ:情報とは差異の連鎖である
グレゴリー・ベイトソンの「差異が差異を生む」というフレーズは、情報をモノではなく「伝わる差異」と定義しようとする斬新な視点です。これはサイバネティクスや記号学の流れの中で発展し、現在の認知科学モデルや人工知能(LLM)の仕組みにも通底する原則として見出すことができます。
- 要点1: 情報は物質やエネルギーそのものではなく、システムに何らかの変化をもたらす差異である。
- 要点2: 思想史的に見ると、ウィーナーやパース、デリダ、ルーマンらも“意味”を差異関係として捉えており、ベイトソンの理論と共鳴する部分が多い。
- 要点3: 認知科学やLLMのメカニズムは、いずれも入力に含まれる差異を検出・強調し、それを学習や予測に生かす構造を持つ。
- 要点4: ただし人間の情報処理は目的や身体的文脈とも深く結びつき、単なる差異パターンを超えた意味づけが存在する。
今後の研究テーマとしては、「LLMのようなモデルに身体性や目的性の要素を持たせた場合、どこまで実世界的な“意味”に近づけるのか」や、「差異が差異を生む」という観点を生態系レベル(環境や社会)でどう応用できるのか、といった問いが挙げられるでしょう。情報を「差異の連鎖」として捉えるベイトソンの着想は、AI時代にこそ新たな示唆を与えてくれる可能性があります。
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