はじめに
近年、生成AIやLLM(Large Language Model)が急速に発展し、私たちの生活やビジネスの現場に広く浸透しています。しかし、これらのモデルは膨大なテキストデータをもとに統計的なパターンを学習しているため、エナクティブ認知科学が提唱する「認知は身体と環境との相互作用を通して創発される」という立場から見ると、重要な要素である身体性や実際の行為を欠いていると指摘されることがあります。本記事では、エナクティブ認知科学の視点から生成AIやLLMを捉え、意味の生成、理解と行為の結びつき、そして知識構築への新たな見方について考察するとともに、今後の展望を探ります。
意味の生成と身体・環境との結びつき
エナクティブ認知科学は、認知を脳内表象の操作だけでなく、身体や環境との絶え間ない相互作用の中で「意味」が創発されるプロセスと捉えます。これに対して、LLMは過去のテキストデータから言語的パターンを統計的に捉え、出力を生成するため、以下のような論点が挙げられます。
身体性と環境の重要性
LLMは、あくまで文字情報に依存しており、実際の身体的経験や環境との直接的な関わりを持っていません。エナクティブ認知科学では、私たちが世界を認識し意味を見出す過程は、身体を通じた行為や環境との相互作用に根ざしていると考えます。たとえば、実際に物を手に取って触れる経験や、状況に応じた身体の動きは、単なるテキスト情報では得られない豊かな意味付けをもたらします。この点から、現状のLLMは「身体を介した世界との相互作用による意味生成」が欠如していると指摘されるのです。
分節化と経験世界への埋め込み
エナクティブ認知科学では、認知主体が自律的に環境を分節化し、自分自身の目的や生理的状態、行為可能性(affordance)を踏まえた上で意味を創出するとされます。人間は、自らの経験や状況に基づいて世界を解釈し、意味を構築する能力を持っています。しかし、LLMは事前に与えられたテキストコーパスの構造や統計的特徴に従って出力を生成するため、環境からのフィードバックや自己の生理的・行為的制約を反映した意味の生成プロセスが含まれていません。結果として、エージェントとしての自律的な視点が不足しているとの批判が生じるのです。
「理解」と「行為」の結びつき
エナクティブ認知科学では、単なる情報処理やパターン認識だけではなく、理解が実際の行為と結びついて初めて真の意味を成すと考えられています。以下の点で、生成AIと人間の理解とのギャップが顕在化します。
知識は行為と結びついてこそ意味を成す
知識や理解は、抽象的な情報として存在するだけではなく、実際に行動に移すことでその価値が発揮されるものです。エナクティブ認知科学の観点では、行為的推論―すなわち、状況に応じた行動の可能性を踏まえた判断―が、知識の意味を具体化させる鍵となります。しかし、現状のLLMは高次元のベクトル空間上でパターンを捉え、テキストを生成するにとどまっており、実際に環境へ働きかける行為とは結びついていません。ロボットなどが身体を用いて実世界で行動し、その結果をもとに言語モデルがアップデートされる場合には、初めてエナクティブな理解に近づく可能性がありますが、多くのケースではテキスト生成の枠内に留まっています。
行為の文脈性と状況論
行為は常に特定のコンテクストや状況、社会的・文化的背景の中で行われます。例えば、同じ動作でも、その背景にある文化や社会の文脈によって意味が大きく異なることがあります。エナクティブ認知科学は、こうした文脈性を重視し、意味の生成は固定的なものではなく、状況に応じて変化するものと捉えます。一方、LLMは大量のテキストから抽出した統計的パターンに基づいて出力を生成するため、動的な文脈や状況に柔軟に対応する能力は限定的です。これにより、ユーザが実際の行為を通じて得る生の体験や、文化的背景に根ざした判断との乖離が生じる可能性があります。
知識の“構築”への新しい見方
エナクティブ認知科学は、知識や意味の構築をエージェントと環境との共創プロセスとして捉えます。生成AIやLLMは、その学習過程で既に存在するテキストデータを基に出力を生成するため、一次的な意味生成プロセス―身体的相互作用を伴うプロセス―からは乖離していると言えるでしょう。
エージェントと環境の共創
エナクティブ的な視点では、知識はエージェントが環境に働きかけ、環境からのフィードバックを受け取ることで構築される動的なプロセスです。たとえば、実際に現場で体験を通して問題を解決していく過程は、単なる情報の受動的な受け取りではなく、能動的な意味の創出を伴います。一方、LLMは過去に生成されたテキストデータを参照するのみであり、環境とのインタラクションを直接的に経験することがありません。そのため、エナクティブ認知科学的な観点からは、知識の構築プロセスとしての「共創」が十分に実現されていないと評価されがちです。
LLMの応答における共創の可能性
しかしながら、LLM単体ではなく、ユーザとの対話や社会的文脈と組み合わせることで、部分的な共創が実現する可能性は否定できません。ユーザがLLMの応答に自らの経験や判断を付加することで、結果的に新たな意味が生まれるプロセスは、エナクティブな共創の一端を担うと考えられます。つまり、LLMが提供する情報をどのように解釈し、実際の行動や判断に落とし込むかが、生成される知識の質を左右する重要な要素となります。
今後の展望:身体性・環境性との統合
エナクティブ認知科学の示唆を踏まえ、生成AIやLLMがより豊かな意味生成を実現するためには、身体性や環境との直接的な結合が求められます。以下に、今後期待される展望について述べます。
身体的情報の取り込み(Embodied AI)
近年、センサー技術やロボティクス、VR/ARといった分野での進展により、AIに身体的情報を取り入れる試みが活発化しています。カメラやマイク、各種センサーを活用して、AIが実際の環境からリアルタイムで情報を取得し、行動選択や学習に反映させる「Embodied AI」は、従来のテキストベースのLLMの枠を超え、エナクティブな意味生成に近づくための重要なステップとなります。こうした取り組みが進むことで、身体を持つエージェントとしてのAIが、実際の環境との相互作用を通じた学習プロセスを獲得する可能性が広がります。
社会・文化的協調との連携
また、エナクティブ認知科学は、認知が社会的・文化的相互作用の中で形成されるという視点も強調します。オンラインコミュニケーションやグループでの協働作業において、複数のユーザがLLMを介して議論を行い、互いにフィードバックを交換することで、従来の静的な意味生成を超えた動的な知識の共創が期待されます。リアルタイムな対話やインタラクションを通じ、ユーザ自身が意味付けを行い、社会的文脈と融合することで、より豊かで実践的な知識体系が構築されるでしょう。
まとめ
エナクティブ認知科学の視点から見ると、現状の生成AIやLLMは、身体性や環境との直接的な相互作用を欠くため、意味の創発プロセスにおいて限界があると言えます。具体的には、統計的なテキストパターンに依拠するため、自律的な環境分節化や行為を通じた理解、さらには動的な文脈対応が十分に反映されていません。しかし、ユーザとの対話や社会的文脈との組み合わせにより、部分的ながらエナクティブな共創が実現する可能性も秘めています。将来的には、Embodied AIや社会・文化的協調との連携を進めることで、よりエナクティブな知識生成モデルへの進化が期待されます。こうした取り組みは、生成AIが単なる情報処理ツールを超え、実世界との豊かな相互作用を通じた意味生成の新たな地平を切り拓く重要な鍵となるでしょう。
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